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2010/10/26

空の封筒

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 西日暮里の駅で前の座席が空いたので座ろうとすると、その足元にみずほ銀行の封筒が落ちていた。靴跡がついたその白い封筒が目に入ったとき、少し躊躇したけれど、そのまま席に座った。
 今、足元に銀行の封筒が落ちている。中身はきっと空だろう。さっき座るときに少しだけ見たけれど、厚みは無かった。いや、ちょっと目に入っただけで、決して厚さを確かめたわけではない。全く気にしなかったけれど、座ろうとして下を見たら視界にあの封筒が入ってきて、たまたま厚みを把握することになっただけのことだ。
 座ってから少し足を動かすと、革靴の底に紙の質感を感じた。どうやら僕がたまたま足を置いた位置の下に、あの中身が空の封筒があるらしい。ちょうど僕の足があの封筒をおさえるような形になっているみたいだ。だからといって改めて足を動かす必要はない。下に封筒があろうがなかろうが、その位置が僕の足にとってベストなポジションであるのだから。
 さて、期せずして僕の足の下にあるこの白いみずほ銀行の封筒は、十中八九空だ。足の感覚からもそう感じられる。別に確かめようとして足を置いたわけではないけれど。

 しかし、この空の封筒に万が一何かが入っていたとすると、このまま放っておくのはよくないだろう。万が一何かが入っていたとして、それが何かはわからないけれど、銀行の封筒であるからにはそれが日本銀行券つまりお金、さらに厚みから考えて紙幣であり、さらには封筒に入っているくらいだから一万円札である可能性はある。僕自身は金額の多寡には興味はないけれど。
 もしその紙幣を誰か心無い人に拾われて使われてしまったら、落とした人はたいそう困ってしまうだろう。そんなことになるくらいなら、僕のような金銭に一切興味のない人間が拾って駅か交番に届けたほうが良い。そう考えると、僕は不本意ながら、空でほぼ間違いのない銀行の白い封筒を拾わないといけない。あぁ、なんて面倒なことに巻き込まれてしまったのだろうか。拾いたくもない銀行の封筒を拾わなくてはいけないなんて。今日はとてもついていない。

 帰宅時刻の各駅停車はドアが開くたびに多くの人をはき出して、代わりにわずかな人を乗せて走る。僕は車内が閑散とするのを待った。もちろん何一つ後ろめたい気持ちはない。交番に届けるための第一歩として封筒を拾うだけなのだから。
 ただ、さっきまで僕の目の前に立っていたサラリーマンが、僕の対面の席に座ってからなかなか降りない。こちらを見ているような気がする。この空の封筒は僕が交番に届けるのだから、誰にも渡さないし触らせない。
 やがてある駅で多くの乗客とともにそのサラリーマンも降りた。そして代わりの乗客が乗り込んでくるまでのその刹那、もっとも車内に人が少なくなるその瞬間に、僕は座ったまま素早く前かがみになり、白い封筒を拾い上げた。
 砂で若干ざらついた封筒を手にした瞬間に、僕は確信した。
 「この封筒は、空だ。」
 僕はその薄汚い封筒を二つに折って、膝の上にある鞄に置いた。なんで僕は電車の床に落ちていたごみを膝の上に抱えているのだろう。
 僕はごみを手にしたまま幾つかの駅を通過し、最寄り駅で電車を降りた。風が冷たくて、秋はもう帰り支度をして冬の到来を待っているみたいだった。僕はホームを歩きながら、体の前で封筒を真っ直ぐに伸ばした。別に興味はなかったけれど、はじめて封筒の中身を目で確かめた。
 封筒は、空だった。
 階段を上がり、駅のごみ箱にその封筒を捨てた。封筒についていた砂のざらつきが右手の指先にしばらく残っていた。

2010/07/05

おじいさんのスイカ

 昔々あるところに、スイカが大好きなおじいさんがいました。

 おじいさんは夏になると毎日のようにスイカを買ってきては、近くの川で冷やしてから、縁側に並んで家族みんなで食べていました。そしてスイカを口に含んでは、誰よりも遠くにタネを飛ばすのでした。
 あるとき、おじいさんは庭の片隅に、短い「つた」が生えているのを見つけました。おじいさんが飛ばしたスイカの種がひとりでに育っていたのです。
 おじいさんはこれ幸いと、手間暇を掛けてスイカを育て、次の夏には自分の作ったスイカを食べることができました。
 おじいさんはスイカ作りに一生懸命になり、やがて八百屋さんに並んでいるどのスイカよりも大きなスイカを作るようになりました。ご近所さんから請われて、おじいさんはこのスイカを「おじいさんの大きなスイカ」として売るようになり、大変喜ばれました。

 しかし、おじいさんの住むこの小さな村にも、グローバリゼーションの波が容赦なく押し寄せ、飲み込まれていくのでした。
 外国から、おじいさんのよりももっと大きなスイカが入ってくるようになると、「おじいさんの大きなスイカ」は、ぱったりと売れなくなってしまいました。
 おじいさんは、より大きなスイカを作ろうと昼夜を問わずやっきになって勉強し、畑に出続けました。それでも、外国からやってきたスイカより大きなものを作ることはできませんでした。やがておじいさんは無理がたたって、ついに体を壊してしまいました。
 おじいさんがスイカを作れなくなると、もう家族で縁側に並んでスイカを食べることもなくなりました。

 おじいさんは子どもたちにスイカ作りを続けて欲しいと思っていましたが、子どもたちは「立派な会社勤めで」忙しく、とてもそれを口にすることはできませんでした。
 それでも、孫娘の一人が、おじいさんの思いを感じ取っていました。何より、その子はおじいさんの作るスイカが大好きでした。

 おじいさんが亡くなったあと、大きくなった孫娘はおじいさんの畑に再びスイカの種を植え、おじいさんのやり方そっくりそのままで、スイカを作りました。
 世の中ではたくさんのスイカが売られていて、「おじいさんの大きなスイカ」はむしろ小ぶりになっていました。孫娘は、スイカに新しい名前をつけました。

 「おじいさんのスイカ」

 甘くて美味しいおじいさんのスイカは、とても喜ばれたのでした。

2010/03/20

風の強い日に思い出すこと

 小学校三年生の頃だ。僕は春休みの一日を、まだ出しっ放しの炬燵の中で過ごしていた。外ではわずかに残った冬の空気を振り払うように、強い風が吹き荒れていた。
 僕はゲームボーイを片手に、下手糞な口笛のような風の音やガタガタ鳴る雨戸の音、大きく揺れる木々の姿を見て楽しんでいた。やがて物珍しさも無くなると、ゲームに夢中になり、そしてゲームにも飽きてしまうと、座椅子を倒して、そのまま肩まで炬燵にもぐりこんで、目を閉じた。

 気がつくと、肩に毛布がかけられていた。茶色い毛布は、爺ちゃんの乾いた匂いがする。寝転がったまま目を開けると、隣の座椅子に爺ちゃんが背中を曲げて座っていた。
 爺ちゃんは麦茶を飲みながらテレビを観ている。つまりNHKだ。爺ちゃんにとってテレビ=NHKなので、テレビをつけるときも「NHKつけてくれ。」と言う。
 そんな爺ちゃんからNHKを観る権利を奪えるのは、僕だけだった。だから爺ちゃんが観るテレビはNHKとアニメだけだ。
 片手を着いてゆっくり起き上がると、爺ちゃんは肩より前に突き出た首をこちらに向けた。
 「おぉ、起きたか。」
 「うん。」
 部屋は薄暗かった。雨戸は閉められていて、部屋の電気はついておらず、テレビの光だけが部屋を照らしていた。
 「じゃあ、飯にするか。」
 爺ちゃんは寝起きの僕よりもゆっくりと立ち上がると、部屋の電気をつけてから、台所へ歩いていった。そう言えば、父さんも母さんも今日はいないのだ。台所からはガスのつく音と、電子レンジの回る音が聞こえた。
 母さんが作り置きしてくれた夕飯を食べ終わると、爺ちゃんはまた麦茶を飲み、僕はオレンジジュースを飲んだ。アニメはやっていないから、テレビはずっとNHKのままだ。
 僕はまたゲームボーイを手に取り、スイッチを入れた。そのとき、ひときわ強い風が吹き、雨戸を強く揺らした。そして、わずかに開いていた居間のドアが強く閉まった。
 僕はゲームボーイを置いて爺ちゃんのほうを見たけれど、爺ちゃんはテレビに顔を向けたままでいた。僕もテレビを見ると、強風に関するニュースを流している。電車が止まり、看板が落下して怪我人が出ていた。
 そしてまた雨戸がさっきよりも強く揺れた。僕は急に不安になった。電車が止まるくらいの風だから、この家が大丈夫だなんて思えなかった。外にいる父さんと母さんも帰って来れないしれないと思った。
 爺ちゃんに話しかけようと横を向くと、爺ちゃんがこっちを見ていた。
 「怖いか?」
 「……ううん。」
 気恥ずかしさからそう答えた。すると、爺ちゃんは、僕の頭を撫でた。
 「そうか。爺ちゃんは怖いなぁ。」
 僕は髪の毛をくしゃくしゃにされたまま、爺ちゃんをじっと見た。爺ちゃんは僕の頭に手を載せたまま、ゆっくりと体をこちらに向けてから言った。
 「この家が潰れたら怖いし、外にいるお父さんやお母さんも心配だ。電車が止まってみんな困っているだろうし、学校だって壊れたら大変だ。」
 爺ちゃんは僕がまさに不安に思っていることばかりを口に出した。ただし、学校について僕は壊れても良いと思っていたけれど。
 「確かに強いのは良いことだけど、だからと言って怖がることは悪いことじゃない。怖いってことは、無くしちゃいけないものがあることだから。」
 爺ちゃんは僕の頭から手を外すと、麦茶を一口すすった。そして今度はテレビのほうを向いて言った。
 「まぁ、うちの婆ちゃんは怖いもの無しだったけどなぁ。」
 爺ちゃんはそのまま大河ドラマを観はじめて、僕はまたゲームを手に取った。座椅子に座りなおして毛布を引き上げると、爺ちゃんの匂いがした。

2009/05/18

グラス

 食器棚の一番高いところ、あんまり開かれないその扉の奥に、一対のグラスが住んでいました。彼らは何年か前のあるとき、結婚式の引き出物としてこの家に一緒にやってきました。新郎新婦は初めての共同作業として結婚式の黒字化に取り組んでいたため、グラスをプレゼントしながらも、もらう側の気持ちは汲んでいませんでしたが、存外この家の主人には気に入られ、特別な日には必ず二人揃って食卓に並ぶのでした。
 ある日、戸棚にしまわれていたグラスの片方が、もう片方にひびが入っていることに気付きます。

「ねぇ君、どうやら君の体にはひびが入ってしまっているようだね。」
『そんな訳ないだろ。僕はどこにもぶつかってはいないよ。』
「でも現にひびが入っているからね。自分の体は見えないだろうから、僕に反射させて見てごらんよ。」
『どれどれ。ううん。確かにひびが入っているね。でもそのひびは、僕にじゃなくて君に入っているものだね。君自身のひびが僕の体に反射して見えたって寸法だろう。』
「そんなはずはないさ。僕はご覧の通りぴっかぴかだからね。ひびが入っているのは君のほうさ」
『まぁどちらでもいいさ。グラス同士で水掛け論をしても仕方ないからね。今度洗剤とタオルが一緒のときにでも話し合おうよ。』
「そんな悠長なことを言ってていいのかな。言っちゃ何だけど、僕らはそんじょそこらのコップとは違う、特別なグラスだ。コップならほっとかれるような小さなひびや傷も、僕らにとってはおおごとだよ。捨てられちまうかもしれない。長年連れ添った君がいなくなってしまうかも知れないと考えただけで、僕はとても寂しい気持ちになるよ。でも仕方ない。それが選ばれた立場にいるものの宿命だからね。」
『そうだね。捨てられるのがどちらであれ、少なくとも離れ離れになることは間違いないだろうね。』
「繰り返すけれど、僕にはひびなんか入っていない。一縷の傷も一点の曇りもないよ。捨てられるのは、君だ。僕はそのことをとても残念に思うよ。」
『ひびや傷はともかく、君の目は曇り気味だね。いずれわかることだよ。』

 それからしばらくして、主人が久し振りに戸棚からグラスを取り出すと、片方のグラスにひびが入っているのを見つけました。主人は口惜しそうにひびの入ったグラスを見つめ、少し首をかしげた後、ペアのグラスを両方とも捨ててしまいました。

2009/01/21

欠落

 「君を絶対に幸せにするから、ずっと僕のそばで笑っていてほしい。」
 彼はそう言って彼女を妻に迎えた。
 実直な彼は誓いを守るべく、一心不乱に働く一方で、決して家の中に仕事は持ち込まずに、妻との時間をできる限り多く設けるようにした。彼は少し古い男で、自分の稼ぎで生活を支えることが家族の幸せであると考えていたのだが、仕事にかまけて妻との時間を疎かにするほど視野が狭くもなかった。
 結婚生活は幸せだった。子供には恵まれなかったが、そのことを特に不幸だとも感じなかった。むしろそのことで妻と二人で過ごす時間が多いことが嬉しかったし、それに、子育てに奔走する同世代の母に比べて、――結婚して多少ふっくらはしたが、彼女は美しかった。二人はいつも手をつないで歩き、たまに真っ白なテーブルクロスのレストランで食事をした。

 そんな中で、彼女が働きに出たいと言い出したのは、彼にとって意外だった。彼は努めて軽い調子で、今の自分の稼ぎに不満があるのかと妻に聞いたが、彼女は笑ってそれを否定し、ただ外の世界にも触れてみたいだけだと言った。この申し出は、多少なりとも彼の自尊心を傷つけたが、単調な家事仕事だけの生活(と彼は解釈した)を抜け出して外に出ることを彼女が望むなら、それを尊重したいと考えてこれに賛成した。ただ、一つだけ条件をつけた。彼女の稼ぎは彼女自身で使うこととし、家計はこれまで通り自分の稼ぎで支えるという条件を。彼はやはり古い男なのだ。
 彼女が働き出してからも、変わらず日々は幸せだった。出会った頃のような空から全身に降り注ぐような幸せは無かったけれども、二人で過ごした年月のうちに降り積った幸せは、手を伸ばせばいつでもすくい取ることができた。

 あるとき彼が仕事で外出中、自分が妻の勤め先の近くにいることに気がついた。時間もあったし、それまで彼は妻の働く姿を見たことがなかったので、一目見てやろうと彼は妻の勤め先へと向かった。
 平日昼間の宝飾店に背広姿のサラリーマンが一人で行くのは憚られるので、少し離れた距離から中の様子をうかがうと、ガラス張りの店内は良く見通せた。だが、そこに妻の姿はなかった。休憩中かとも思い、しばらく待ってみたがそれでも彼女は現れない。
 そのまま帰って、晩酌でもしながら妻に言えばいいのだろう、今日職場に行ったけど、いなかったね、と。だが、何かが引っかかった。彼は店内に入ると、以前彼女に見立ててもらったからと言って、妻の名前を出し、勤務しているかを聞いた。彼女は現在、週に二日しか勤務していないという。彼は少し顔をしかめてお礼を言うと、店を出た。
 彼の知る限り、妻は概ね週三日~四日は勤務しているはずであった。ただ、妻は仕事のある日もない日も変わらずに、夕食を作って彼を迎えてくれていたため、彼は彼女の言葉以外からそのことをうかがい知ることはできなかった。
 その日、彼は少し早く帰宅したが、妻は変わらずに夕飯の支度を整えて彼を迎えた。夕飯を食べながら彼はありったけの演技でそれとなく彼女に聞いた、仕事はどうだったかと。彼女は答えた。
 「いつも通り。最初は新しいことばかりだったけど、やっぱり馴れてしまうと退屈になるね。」
 そう言って彼女は、自分が接客中の欠伸を誤魔化した話や同僚の失敗談などを楽しそうに話すのであった。
 彼はそれから彼女を問い詰めるようなことはしなかったし、もう彼女の職場に行こうともしなかった。二人の関係はなんら変わらず、幸せだった。だが彼の脳裏には常に一点の染みが残っているような感覚があった。仕事をしているときも、彼女と話しているときにも、油断しているとその染みがいつの間にか目の中に入り込んできて、眼前の世界を汚そうとするのであった。
 彼女はあの日、どこへ行っていたのか/なぜ嘘をついたのか/あの日だけのことなのか/彼女の稼ぎはどこへ行っているのか/いや、誰に行っているのだろうか。
 ある日ふと彼が妻を見ると、彼女が少し細くなっていることに気付いた。まるで彼と結婚する前に戻ったかのような、少し儚げな彼女の美しさには彼は魅力を感じると同時に、そんなことにも気付かずにいた自分を責めた。彼女の罪は自分に原因があるように彼には思えたのだった。
 彼は妻に疑念をぶつけることができなかった。その理由は、一つは彼女を疑うことそれ自体が彼には恥ずべきことのように思われたのであった。そしてもう一つは、彼はただ怖かったからであった。もし彼女が彼の思うような罪を犯していたとして、それが露見したとき、崩れるのは彼のほうであると、彼自身がわかっていた。
 彼は不安を打ち消すように、仕事により一層打ち込んだ。あたかも自分の義務を果たせば、誰かが見ていてくれて、それに報いてくれるとでも言わんばかりであった。そのくせ彼自身そんなことは微塵も信じてなどいなかった。
 帰宅の時間は少しずつ遅くなり、妻と過ごす時間も削られていた。だから、妻の母が深夜近くに彼に連絡をよこしたときも、彼はまだ会社にいた。彼が病院に着いた頃には日付が変わっていた。
 真っ白なベッドに横たわった妻は、穏やかな顔をして何日間か眠りに着いたあと、そのまま息を引き取った。彼女は最期まで約束を守り、彼の思い出には笑顔の彼女しか残っていなかった。そして彼はそのことが何よりも悲しかった。

2008/09/23

星空を欲しがる神様

 昔々この宇宙の歴史が始まる少し前、神様たちが集まってそれぞれが担当する星を割り振っていました。その話し合いが終わると、神様たちは一斉に散って行き、この宇宙の歴史がはじまったのでした。
 神様のうちの、地球(と呼ばれることになる星)を割り当てられた神は、この星を他のどの星よりも美しいものにしたいと考えていました。
 そのために長い時間をかけて、星を熱したり冷ましたりして、最初は茶色い岩の固まりだったこの星を誰も見たことのないような青色に染め上げました。
 神様はこの星の出来映えに大変満足しました。はるか彼方から星の青さをひとしきり愛でると、次にはより近づいて青の中に散りばめられた彩りを楽しむのでした。
 神様はその日も天高くから、朝日に輝く深緑や目映く光る川面や夕焼けに染まる大地を眺めていました。やがて地球が太陽から顔を背けると、どの色も暗闇に沈んで行きました。神様は暗闇に沈んだ色をより近くで見たいと思い、初めて地上に降りてみることにしました。
 森の中に降り立った神様は、初めてその足にひんやりした草の感触を感じました。神様は踏みしめるようにして森の中を進んで行きました。ただ闇の中では全ての色が黒く塗りつぶされてしまい、せっかくの色彩を楽しむことができません。自分の作ったこの星の美しさが太陽なしでは成り立たないことを知り、それが少し損なわれたような感じがしました。
 そんな思いで神様が暗闇の中たたずんでいると、梟が一羽神様の前を横切り、すぐ近くの木のてっぺんにとまりました。梟を追って目線を上にやった神様は、思わず息を飲みました。
 そこには満天の星空が広がっていました。瞬く星の数は神様ですら数えきれないように思われました。
 それまで神様は自分の星を見下ろすことはあっても、空を見上げたことなどなかったのでした。神様は星空を見て、この光を是非とも自分の星にも持たせたいと思いました。太陽の光が無いときには、夜空と地上で無数の光が瞬く光景を作り上げたいと考えたのでした。
 地上に光を与えるには、そこに火を与えてやる必要があります。それまで神様は動物たちに火を使うことを許していませんでしたが、神様は新たに人間という動物を造り、彼らに少しばかりの火と知性とを与えて地上に放ちました。
 他の動物たちが夜は闇に紛れて寝静まる中、人間の作り上げた都市は夜の間も光々と輝いていました。彼らはほんの少しの間で爆発的にその数を増やし、すぐに彼らの光が地上を覆い尽くすようになりました。
 地上に煌めく無数の光に満足した神様は、再び地上に降り立ちました。地上の光と夜空の光を見比べようと思ったのでした。
 しかし、神様が見上げた空には、もうあの日の星空はありませんでした。
 濁った空には、まばらな星が霞んで見えるばかりになってしまっていたのでした。

2008/09/09

おじいさんの桃太郎

 昔々あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。ある日、おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。
 今日も山へ向かうおじいさんの足取りは重いものでした。それは何も山道や衰えのせいばかりではありません。薪を入れるかごはまだ空っぽでしたが、おじいさんの背中には徒労と慚愧が、何年もの間ずっとのしかかっていたのです。

 おじいさんとおばあさんの住む村は、ずっと昔から鬼たちによってひどい目にあわせさてきました。村人たちが丹精をこめて作った作物も、釣り上げた魚も、織り上げた反物も殆ど全て、鬼ヶ島からやってくる鬼たちによって奪い取られていました。おかげで村人たちが口にするのは野菜の根や茎ばかりで、身にまとうのは何度も繕ったぼろきれのような服でした。
 村人たちは、鬼たちの支配から逃れたいという気持ちは大いにありましたが、逃れようとする勇気はありませんでした。夜な夜な鬼退治のための話し合いが設けられ、どの会も明日こそはと士気高揚して散会するのですが、明くる日には昨日と同じ一日が始まっているという具合でした。しかしそれも無理はありません。何年前かのあるとき、鬼たちに逆らった村の若者が連れ去られ、明くる日に、まるで赤鬼のように真っ赤になって村人たちの前に帰ってきたことがあったからです。
 もう村人たちは占いや呪(まじな)いにすがるしかありませんでした。ほうきを逆さにして立てかけたり、軒先に赤く染めた紙を吊るしたりと、幾つもの呪いが試されては捨てられていきました。そんな中、一人の占い師が、こんな夢を見ました。
 ーー鬼の子を埋めてその上で育てた桃を川に流すと、鬼が退治される。
 村人たちはこの占いにわき立ちました。というのもこの占いは「鬼の子を埋める」という直接鬼に関係しそうな行為が含まれているという点において、非常に効果があるように彼らには思えたからでした。すぐに村人たちはどうやって鬼の子を“工面”するかについての話し合いに移ろうとしました。
 おじいさんだけはこの占いを信じることに反対でした。いくら鬼とはいえ、子供を埋めるようなことは許すことが出来ませんでした。おじいさんには、子供を失う親の悲しみが痛いほどによくわかるのでした。
 しかし、結局おじいさんの意見に耳を傾けるものはいませんでした。村人たちにとって相手が子供か否かは、難易の問題でこそあれ、情非情の問題とはなりえなかったのです。そして話し合いばかりであった村人たちも、「子供くらいならば」と今回は行動を起こすことを決めてしまったのでした。
 村人たちがどのようにして鬼の子供を“調達”したのかおじいさんは知りません。ただ、確かに鬼の子供はやってきました。鬼の子供は真っ赤な体と、頭から突き出たまだ小さな角、そして少しとがった牙を除けば、なんら人間のこと変わるところはありませんでした。真っ赤な体をして、まるで眠ったようにしている鬼の子を見ると、同じように真っ赤な体で眠るように打ち捨てられていた自分の息子のことを思い出して、おじいさんは涙をぽろぽろとこぼしました。
 おじいさんはその子を自分の山に埋めるよう皆を説得し、そして自分一人の手でその子を埋めました。そうして、桃の種を一粒その上にそっと置いてやりました。それから毎日、山へ柴刈りに行きながら、桃の面倒を見てやるのでした。鬼たちに知られないよう桃の木のことは、村の男たちだけの秘密とされました。
 初めて桃の実がなったのは、種を植えてから三年後のことでした。実がなった最初の年、真っ赤に実った桃の実を見て、おじいさんはまた自分の子供と鬼の子供のことを思い出して泣いていました、そうして川へ一つ桃の実を流してやりました。次の日も、また次の日もおじいさんは桃を川に流してやりましたが、何もおきません。結局その年になった実を全て流してしまっても、村も鬼も変わらずにいました。そうしてその後も毎年夏になると桃の実を川に流していましたが、今日まで鬼は変わらず村で暴れ回るのでした。

 おじいさんは柴刈りもそこそこに、桃の実を一つ握り締めて、木のふもとに座り込みました。そして桃の実をじっと眺めていました。
 ーー鬼の子を埋めてその上で育てた桃を川に流すと、鬼が退治される。
 こう予言した占い師はもういませんでした。占いに対する失望は、いつのまにかおじいさんに対する失望に転嫁されていました。
 「育て方が良くなかった。」「埋め方が良くなかった。」挙句には「桃泥棒」と言う人すらいることもおじいさんは知っていました。でもそんなことよりもおじいさんは、この占いのために失われた赤い小さな命のことを思わずにはいられませんでした。また、こうして無為に桃を川に流していることも、新しい小さな命を打ち捨てているように思えるのでした。
 今日で最後にしよう。そう決心して、おじいさんは掌にある小さな桃を川に流しました。桃はくるくると回りながら、光る水面の上を滑るようにして流れていきました。

 家へ帰る道すがら、おばあさんが息を切らせてこちらへ向かって歩いてくるのが見えました。何事かとおじいさんが駆け寄っていくと、何と大きな桃が川に流れ着いてきたというのです。おじいさんが慌てて家に帰ると、家の周りには何人かの村人が来ていました。人垣を割って家に入ると、なるほど大きな桃が座敷に上げてありました。
 おじいさんは、ただ驚いて桃を見つめるばかりでした。しかし、あの占いを知っている村の男たちは早く桃を割るようにとおじいさんを急かすので、おじいさんはあわてて柴刈りに使ったナタを手にとって座敷に上がりました。そして、ナタを桃のてっぺんに振り下ろそうとしたその刹那、大きな桃が光ったかと思うと二つに割れ、中から赤ん坊の泣き声が聞こえてきたのでした。
 おじいさんの家は大騒ぎでした。占いを知っている男たちも、知らない女たちもこれを吉兆として、大いに喜びました。村人たちはなけなしの食料を集めて、宴を開き、これを祝い、子には「桃太郎」という名前が与えられました。
 おじいさんも小さな命の誕生を喜びました。ただ、まだ文字通り真っ赤な赤ん坊の姿を見ると、またしてもあの鬼の子のことが思い出されました。もちろん、桃太郎には角も牙もありませんが、あの鬼の子に似ているように思えるのでした。
 桃太郎が成長するにつれ、もう肌は赤くなくなりましたが、はっきりしてきた目鼻立ちがますますあの鬼の子に似てくるようでした。おじいさんは複雑な気持ちでいました。あの子が生まれ変わることが出来たのなら、こんなに嬉しいことはありません、しかし、この子の運命を考えると、それはとても辛いことに思えるのです。おじいさんは桃太郎があのことを言い出さないことだけを願っていました。そのためならば桃太郎が病弱に育って欲しいとまで願いました。それでも、村の乏しい食料にもかかわらず、桃太郎はすくすくと育っていきました。

 そうして、その日がやってきたのでした。
 おじいさんとおばあさんと桃太郎で朝食を食べていると、桃太郎は箸を置き、すっと背筋を伸ばして言いました。
 「おじいさん、おばあさん、僕は鬼退治に行きます。」
 これを聞いたおじいさんとおばあさんはびっくりして言葉に詰まった後、二人とも泣き出してしまいました。おばあさんは、桃太郎が立派に成長し、村を救う決意をしたことが嬉しくて泣いていました。
 おじいさんは、自分の子と、鬼の子と、鬼の親のことを思って泣いていました。

2008/07/26

予測変換

 携帯電話の文字入力について研究している博士がいた。
 博士は主に予測変換・入力について研究開発をしていて、既に「スラムダンク予測変換」の開発に成功していた。「スラムダンク予想変換」では、例えば「安西先生」と入力すると、次入力候補に「バスケがしたいです。」と表示されるスグレモノで、これにより博士は予測変換におけるその地位を確固たるものにしていた。
 そしてこの度博士は、究極の予測変換・入力の開発に成功した。それは「テレパシー予測変換」と名づけられ、その内容は文字入力時の指先から使用者の脳波の状態を読み取り、それを分析することにより次の入力候補を表示するというものである。つまり、使用者の頭の中がそのまま入力されるという究極の予測変換である。
 これにより更なる地位と名誉が約束されたも同然の博士に、助手が嬉々として話かけた。
 「やりましたね博士。この究極の予測変換は世界中全ての携帯電話に搭載されるに違いありません。そうなれば莫大な収入になりますよ!」
 博士は流石に助手のこうした反応をも予測していたようで、落ち着き払って答えた。
 「いや。私にあるのはただ人々のコミュニケーションを円滑にしたいという思いだけだよ。人が本当に力を発揮できるのは、人と人が結びついたときだからね。私のつまらない発明がその一助となれば私にはそれで十分だよ。」
 博士は携帯文字入力学会に発明の概要を知らせるべく、早速「テレパシー予測変換」を利用して電子メールの作成に取り掛かった。博士が「前略」と打つだけで、「テレパシー予測変換」が次々と文章を提示し、博士はそれを選択するだけでよかった。
 前略
 私はこの度新しい予測変換・入力システムを開発いたしました。
 私はこのシステムを「テレパシー変換」と名づけます。本システムでは文字入力をする人物(以下、入力者)の指先から脳波の状態を測定し、それにより入力者の脳内にある文言を予測変換候補として表示するものです。
 実験段階でその精度は約99%と非常に高く、ほぼ正確に入力者の頭の中を描き出すことが出来ます。委細は次回の学会にて発表いたしますが、先立ってその概要のみをお知らせした次第です。
 このシステムが開発されたことによる最大のメリットは、私に莫大な収入が……

 博士このシステムの発表を見送ることにした。

2008/07/23

ライオンの飲み会

 昔々、まだライオンが百獣のうちの一種に過ぎなかった頃、彼は季節の変わるごと、仲の良かったキツネや、ウシや、キリンと一緒に飲み会を開いていました。キツネは話が上手く常に話題の中心でした。ウシは飲みすぎに効くとかいって、結局牛乳だけでお腹一杯になっていました。キリンはみんなの話が良く聞き取れませんでしたが、店員を呼ぶのに便利でした。
 あるとき、百獣の王を選ぶ選挙が行われ、キツネ達の推薦で出獅子したライオンが激しい予備選挙と本選挙の末に選出されました。キツネやウシやキリンはこれをたいそう喜んで、ライオンを祝福しました。
 ライオンが百獣の王になってからも、皆の友情は変わらぬままでした。唯一変わったことといえば、定例の飲み会に参加する動物の数が増えたことでした。カバやフラミンゴやフクロウを始め、殆どの動物がこの飲み会に参加するようになりました。カバは大酒飲みで、フラミンゴは飲む前から赤く、フクロウは二次会にならないと起きませんでした。ライオンは動物たちが仲良くすることを歓迎し、回を重ねるごとに大きくなる規模を喜びました。
 そしていつからか、全ての動物がこの飲み会に参加するようになりました。そして、一旦全ての動物が参加するようになってからは、どの動物も一度たりとも欠席することはありませんでした。
 この状況にライオンは一抹の不安を覚えました。ひょっとしたら、みんな嫌々参加しているのではないかと。単なる内輪の楽しみに過ぎなかった飲み会が、自分が百獣の王になったがために強制力を持ってしまっているのではないかと思うようになりました。
 それからライオンは、何度と無く他の動物たちに、飲み会が強制ではないこと、他に用事があれば欠席して構わないことを伝えましたが、それからも、飲み会には一匹の欠員も出ませんでした。
 ライオンは次第に不安になります。最初は自分の権威が他の動物たちに強制をしているのではないかと思っていたものが、今度は、他の動物たちが自分に同情して参加しているのではないかと思えてきたのです。百獣の王である自分が主催の飲み会に箔をつけるために、一応参加しておく。皆のせせら笑いが聞こえるようでした。
 ライオンはある夜、ねぐらである洞窟にキツネを呼んで自分の悩みを打ち明けました。そしてこの状況を何とかして欲しいと頼みました。しかしキツネにはどうすることも出来ません。キツネは皆が参加しているのはしんからライオンを慕っているからであって、強制や同情が理由で無いことを伝えましたが、ライオンは全く取り合いません。キツネも終いには諦めて、僕にはどうすることも出来ないといってそっぽを向いてしまいました。
 ライオンはキツネにひどく腹を立てて、「百獣の王に向かって失礼だぞ!」とキツネを怒鳴りつけました。この言葉にはキツネも、ライオン自身もひどく驚きました。ライオンは慌てて言葉を次ごうとしましたが、何も言うことができないうちに、キツネは洞窟を出て行ってしまいました。
 それからもライオンの飲み会には、全ての動物が参加し続けました。しかし、キツネだけはもう姿を見せることはありませんでした。

2008/07/16

Throw Life

 あくせくした生き方に疲れたので、スローライフを取り入れることにした。

 歩く速度を遅くしたら、周りの景色が見えるようになった。
 食べる速度を遅くしたら、食べ物が美味しく感じられた。
 書く速度を遅くしたら、字が少し綺麗になった。
 メールの返信を遅くしたら、あまり来なくなった。
 DVDの返却を遅らせたら、延滞料金が発生した。
 寝る時間を遅くしたら、朝起きれなくなった。
 起きる時間を遅くしたら、会社に行けなくなった。
 再就職を遅らせていたら、応募出来る年齢じゃなくなっていた。
 結婚の申し込みを遅らせていたら、別の人と結婚してしまった。

 過去を悔いたが、もう遅かった。

2008/07/15

夢

 千葉県出身の僕にとって、その遊園地は比較的身近な存在であった。浦安市の人間ではなかったため、成人式で行くという事はなかったが、それでも県民感謝デーなんかもあったし、あそこは「東京」ではなく「千葉」だという思いは常に持っていた。
 そんな場所でひときわ脚光を浴びるあのキャラクターは僕にとって憧れの存在だった。そして僕は、あの場所を夢の国として規定する一方で、漠然と自分があのキャラクターになりうることを理解していた。夢の国に行った夜などは、一人そのキャラクターになった自分を夢想したものだった。目立ちたがりの癖に舞台度胸の無い僕には、スポットライトを浴びてかつ自分の姿を隠せるあのキャラクターになることが自分に最も合っている様に思えたのだった。
 あのキャラクターになる。その夢と現実を結びつけるために、僕はできうる限りの努力をした。何度と無く夢の国に通い、映画を何度も見直し、ダンスレッスンにも通い、なるべく赤いパンツを履くように心掛けた。ステージに立つ彼の動きを観察し、その動きが基本的に幾つかのパターンの組み合わせであることを理解し、その動きを何度と無く鏡の前で繰り返した。創始者の生涯を学び、金と時間の許す限り海外にある遊園地にも足を運び、念のため中国にある偽物にも行ってみた。
 その結果、僕はいつでも彼になりうる自信があったし、一日も早くその日が来ることを熱望した。だが、どんなに僕が準備万端整えたとしても、夢と現実を結びつける最後の一点が見つけることができなかった。つまり、彼と僕とを結びつけるプロセスがどうしてもわからなかったのである。
 当然ホームページはチェックしたし、地元の友達に頼んで新聞折込の求人広告も貰っていた。リクナビにも毎ナビにも日経ナビにも登録した。求人の広告があるところは全て目を通した。中吊り広告、新聞の隅。こんなとこにあるはずもないのに。あるのはクルーの募集ばかりで、僕の目指すキャラクターになるための糸口はさっぱりつかめなかった。
 途方にくれた僕は、ひとり夢の国に行って、アトラクションにも乗らず、園内をただ彷徨っていた。どんなに努力しても、夢と現実の間には超えられない何かがあることを思うと、いま自分の目の前にあるこの夢のような世界も急に他人事のように思えるのだった。夢と現実の狭間はとてつもなく広く、それでいて履歴書の紙一枚を挟み込むこともできないほど狭かった。
 僕は何度と無く書き直した履歴書を園内のポストに捨てて、夢の国を後にした。

 僕の元に差出人の書いていない封書が届いたのは、それから半月ほど経ってからの事だった。チラシに埋もれて出てきた薄いブルーの封筒を部屋に持って上がり、その封を開くと、中には夢の国の園内にあるホテルの予約票が入っていた。そして同封の便箋には、一週間後の日付と時間、そして見覚えのあるあのキャラクターのマークが印刷されていた。
 僕は最初その意味を飲み込めずにいたが、しばらくしてあの履歴書が彼の元に届いたこと、そして夢と現実が結びついたことを理解した。

 一週間後、僕は園内にあるホテルの前にいた。この一週間、僕は学校にも行かずに、部屋にこもって映画を全て見直し、知識を全て頭に叩き込み、そして彼の動きを復習した。やり残したと思うことは何一つ無かったが、それでも目前に迫った夢の迫力に押しつぶされそうだった。僕の夢が現実に押しつぶされるのが怖かった。あの封書が誰かのいたずらであるようにも思えて、足がすくんだ。
 意を決してフロントに行き、予約票を見せた。フロントの男性はなんら特別な素振りを見せず、僕を部屋に案内してくれた。便箋に書いてあった時間までだいぶ時間があったが、さすがに夢の国を楽しめる気がしなかったため、僕は部屋でただ時間が来るのを待った。天高くにあった日が傾き、窓から水上のショーと花火が見え、やがて園内から人の気配が無くなっていった。
 指定の時間になると、ドアの方でなにか音がした。行ってみてみると、ドアの下から例の便箋が滑り込んでいて、そこには、ある部屋の番号が書いてあった。僕は便箋を取り上げると、それをポケットに入れて、洗面所で顔を洗った。柔らかなタオルで顔を拭いて、そのままタオルに顔をうずめて、自分がこれまでやってきたことを思い返した。さっきまでやり残したことなど無いと思っていたのに、今は何もかも少し足りないような気がしてきた。震えを押さえるために腿を叩き、僕はゆっくりと部屋を出た。

 指定された部屋のドアは、外の部屋と変わるところは何もなかった。僕は便箋を取り出して、もう一度部屋番号を確認すると、大きく息をついて、ドアをノックした。
 中から、男性の声がした。ドアを開けて中に入る。その部屋の作りは、やはり外の部屋と違いは無かった。ただ、ベッドは無く、大きな机と椅子、そしてその前に椅子だけが置いてあった。
 返事をした男性は、机を前にして椅子に座っていた。歳は50台半ば、或いはもっと上かもしれない。気品のある紳士といった風で、白髪の多くなった髪を撫で付けて、黒っぽい燕尾服のようなものを着ていた。彼は自身のことを「彼」の代理人として自己紹介すると、僕に椅子を勧めた。
 それからのことはよく覚えていない。時間的には十数分だったのかもしれないし、一時間やもっとだったのかもしれない。ダンスや知識を披露することは無く、彼は僕がこれまでやってきたことを教えて欲しいと言い、僕は前につんのめりそうになりながら、それに答えた。それから彼がそれについて幾つか質問し、僕がまたそれに答えた。そんなやりとりで僕の「面接」は終了し、僕は元の部屋に返された。
 
 僕は部屋で電気も付けずにひとり今過ごした時間を反芻していた。何を聞かれ、何を答えたのかも良く覚えていなかった。ただ、夢と現実の狭間にいた感覚だけが残っていた。面接の前にあった後悔も今はもうなくなっていた。あの時間で全てが報われたような気がして、不思議な恍惚感が僕を包んでいた。
 暗闇の中で部屋の電話が鳴った。ハッとして時計を見ると、いつの間にか日付が変わっていた。僕は受話器を手に取った。例の男性の声だった。

 「今日はありがとうございました。しかし、残念ながら今回は……」
 「そうですか。残念です。」
 僕は自分の夢が破れたことをすんなりと受け入れることができた。
 「理由をお聞きになりたいでしょう?」
 「そうですね。お願いできますか。」
 「それは本人から直接お聞かせした方がよろしいでしょうな。」
 男性がそういうと、電話を受け渡すような音がした。そしてまもなく、彼の例の甲高い声で、僕が彼になり得なかった理由が告げられた。
 『だって君、猫背だから!』

 もう何年前になるだろうか。今では僕は彼になるという夢を諦めているし、この話も誰にも信じてもらえないだろうから、話さずにいた。それに、これはひょっとしたら夢の国の極秘事項にあたるのかも知れない。
 でも僕も人間だから、自分がやったことを誰かに知って欲しくて、ここに書くことにした。それに実は、面接に呼んでもらった御礼を男性にも彼にも出来ていない。あの夜は何もかもが夢のようで、そんなことまで気が回らなかった。だからここであの男性と彼にお礼を言おうと思う。
 どうもありがとう。僕は君にはなれなかったけれど、クロネコヤマトで立派に働いています。

2008/06/18

犬

 実家で犬を飼っている。シーズー犬だ。
 非常に可愛げのない犬である。
 とある動物病院の先生曰く、
 「非常にユニークな性格のワンちゃんですね。」
 何かと言えば、触られるのを嫌がる。頭を撫でてやっても鬱陶しげにこっちを見るだけで、尻尾の先すら動かそうとしない。しつこく撫でていると、ふいとどこかに行ってしまう。僕が外から帰れば、まるで泥棒が侵入したかのように吠え立てる。
 決して頭のよろしくない犬。エサで釣って、かろうじて「お手」と「おかわり」と「伏せ」を教えることには成功したが、「お手→おかわり→伏せ→エサ」の流れが定式化してしまったため、人が何か食べているのを見ると無闇矢鱈に「お手→おかわり→伏せ」を繰り返す。
 食べ物をもらおうと、「お手」と「おかわり」は必死で爪を立ててきて非常に痛い。気持ち的には「お手」と言うよりむしろ「よこせ」と言う方に近い。そして最終工程の「伏せ」は動作が雑で、腰が全く落ちていない。酷いときには首を少し下にやるだけである。謝れない中学生か。
 食事のとき、流石にテープルのものに手を出すような真似はしないが、おこぼれに預かれないかと、虎視眈々と狙っている。犬のくせに。そして誰かが食べこぼしをしようものなら、一目散に口から飛び込んでいく。何度ビンの蓋を口に含めば気が済むのだろうか。

 そんなヤツも今はすっかり老犬である。
 はじめに我が家に来たのが、ヤツが生後6ヶ月のとき、僕は小学生だった。あれからもう15年近くになる。
 今では「お手」も「おかわり」も「伏せ」も一つ一つがゆっくりになったし、そもそもあまり食べ物を欲しがることも無くなってきた。
 久々に実家に帰っても、吠え立てられることは無く、大概寝ている。近くまで寄って行ってやると、ゆっくり首を起こしてこちらに一瞥くれて、また横になる。本当に可愛くない。
 撫でても逃げなくなったので撫でてやるが、すっかりみすぼらしくなった尻尾は相変わらず動かない。

 大阪での休日の昼下がり、部屋で一人たい焼きを食べていたら、皮のかけらがこぼれ落ちた。僕はあわててそのかけらを拾い上げて、口に放り込んだ。3秒ルール。
 その時にふと、この部屋では、何分何秒床に食べ物が落ちていようが、飛び込んでくる犬がいないことを思った。もう実家を離れて一年半以上経っているにもかかわらず、なぜかこのとき、初めてそのことに気付いた。
 そして、実家でも、今ではあの犬も飛び込んでくることは無くなっていていること、そしてそのうち、実家からも、飛び込んでくる犬がいなくなることを知った。
 あの犬が、どこにもいなくなってしまったとき、僕はたぶんここで、一人でそのことを知るのだと思う。

 そうなったら、試しに食べ物をこぼしてみようか。


【過去記事】
久々に実家に帰ったら犬が予想以上に老いていたため慌てて写真を撮った。

2008/06/16

走れアシモ

 アシモは激怒した。必ず、かの邪智暴虐(じゃちぼうぎゃく)の王を除かなければならぬと決意した。アシモには政治がわからぬ。アシモは、ホンダのロボットである。二足で歩き、子供たちと鬼ごっこをして暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
 アシモは、単純な男であった。バッテリーを、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。たちまち彼は、巡邏(じゅんら)の警吏に捕縛された。調べられて、アシモの懐中からは短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。アシモは、王の前に引き出された。
 「ああ、王は悧巧(りこう)だ。自惚(うぬぼ)れているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、アシモは足もとに視線を落し瞬時ためらい、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」
Q.展示会や博覧会などのイベントでASIMOを使用したいのですが...
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 「ばかな。」と暴君は、嗄(しわが)れた声で低く笑った。「とんでもない嘘(うそ)を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」
 「そうです。帰って来るのです。」アシモは必死で言い張った。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市に宗一郎という石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」
 竹馬の友、宗一郎は、深夜、王城に召された。暴君ディオニスの面前で、佳(よ)き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。アシモは、友に一切の事情を語った。宗一郎は無言で首肯(うなず)き、アシモをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。宗一郎は、縄打たれた。アシモは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。
 アシモはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、翌(あく)る日の午前、陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。
Q.ASIMOはどれ位の時間動く事ができますか?
A.ASIMOはバッテリーの兼ね合いにより、1日の稼動回数や時間に限りがあります。基本的に1日3回(1回あたり最大約30分程度)動かす事が可能ですが、演出の内容により異なりますので、詳しくは弊社スタッフにご相談下さい。
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 「市に用事を残して来た。またすぐ市に行かなければならぬ。あす、おまえの結婚式を挙げる。早いほうがよかろう。」
 妹は頬をあからめた。
「うれしいか。綺麗(きれい)な衣裳も買って来た。さあ、これから行って、村の人たちに知らせて来い。結婚式は、あすだと。」
ASIMOの搬入からリハーサル終了まで約半日を要します。基本的に、ASIMOが出演する日の前日をリハーサル日としてお考え下さい。
��SIMO本体の使用料には前日のリハーサル分が含まれています。
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 アシモは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
 結婚式は、真昼に行われた。アシモは、一生このままここにいたい、と思った。この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。ままならぬ事である。
Q.1週間、1ヶ月、それ以上の期間でASIMOを使用したいのですがレンタル費の割引などはありますか?
A.長期のレンタルを希望されるお客様とは個別にご相談させて頂いております。お手数ですがレンタルお問い合わせページよりご連絡下さい。
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 アシモは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。あすの日没までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。 眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。アシモは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。さて、アシモは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。
2005年末発表の技術改良では最高時速6kmを達成しています。
ASIMO|テクノロジー|機能紹介

 一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。
「待て。」
「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ。」
「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」
「私にはいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ。」
「その、いのちが欲しいのだ。」
「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」
 山賊たちは、ものも言わず一斉に棍棒(こんぼう)を振り挙げた。アシモはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、
「気の毒だが正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙(すき)に、さっさと走って峠を下った。
Q.ASIMOに物を持たせる事はできますか?
A.ASIMOに物を持たせる事や、それらを所定の位置まで運ぶ/渡す事には限りがあります。詳しくは弊社スタッフにご相談下さい。
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 一気に峠を駈け降りたが、流石(さすが)に疲労し、折から午後の灼熱(しゃくねつ)の太陽がまともに、かっと照って来て、アシモは幾度となく眩暈(めまい)を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。
Q.ASIMOを屋外で使用する事はできますか?
A.現在ASIMOの使用は屋内に限らせて頂いております。
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 ふと耳に、潺々(せんせん)、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々(こんこん)と、何か小さく囁(ささや)きながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようにアシモは身をかがめた。水を両手で掬(すく)って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復(かいふく)と共に、わずかながら希望が生れた。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! アシモ。
 最後の死力を尽して、アシモは走った。アシモの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、アシモは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。
 「待て。その人を殺してはならぬ。アシモが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉(のど)がつぶれて嗄(しわが)れた声が幽(かす)かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。
Q.ASIMOに言葉を喋らせる事はできますか?
A.はい。あらかじめ作成された音声を話す事が可能です。
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 すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれた宗一郎は、徐々に釣り上げられてゆく。アシモはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、
「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。アシモだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧(かじ)りついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。宗一郎の縄は、ほどかれたのである。
「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
 群衆の中からも、歔欷(きょき)の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「おまえらの望みは叶(かな)ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」
 どっと群衆の間に、歓声が起った。
「万歳、王様万歳。」
 ひとりの少女が、緋(ひ)のマントをアシモに捧げた。アシモは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「アシモ、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、アシモの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
 勇者は、ひどく赤面した。


【参照】
太宰治 走れメロス(青空文庫)
ASIMO OFFICIAL SITE
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2008/06/03

龍

 「龍」と聞いて、諸兄はいったい何を思い浮かべるだろう。
 何でも願いを一つだけ叶えてもらえると思うだろうか。それとも昔話のアニメが始まったと思うのだろうか。いずれにせよ、諸兄の脳裏には天高く空を舞う龍の姿が思い浮かぶのだと思う。それは当然だし、それこそが龍の本分であろう。
 我輩も龍である。名前はまだ無い。恐らくこれからも無い。そして我輩は空を舞うことができない。器のふちより高く往くことは叶わない。我輩はラーメンの器に描かれた龍である。
 何の因果でこのような姿に生まれついたのであろうか。およそ龍たるもの、空を舞い、でんでん太鼓を持った子供を背中に乗せ、願い事の一つも叶えてみたいものである。
 だが我輩は器にへばり付き、お盆の上に乗り、ラーメンを一つ運ぶのが精一杯である。
 我輩を呼び出すのに、わざわざ世界中に散らばった七つの玉を集める必要は無い。ただ席に座り、一声かければ自ずからやってくる。実につまらぬ存在である。
 同胞たる神龍殿は大魔王に一度殺されているらしく、確かにそれはとんだ災難である。だがそれは、さしずめ有名税といったところだ。わざわざ大魔王様にご足労頂けるのであれば殺されても本望であろう。
 我輩の場合はどうか。我輩の生殺与奪を握っているのは大魔王どころか大学生のアルバイトである。彼らがひとたび手を滑らせれば、たちまち我輩は粉々。その生涯はまさに粉骨砕身ラーメン屋に尽くしてその幕を閉じることとなろう。有名税とは一生無縁。消費税とともに我輩は生きた。
 
 英知の過ぎたるは及ばざるが如し諸兄ならば、我輩の同胞、日光東照宮は鳴竜をご存知であろう。我輩と同じ平面に住みたる龍でありながら、その差は天と地。天井と器である。
 鳴竜殿は東照宮薬師堂の天井に鎮座しておる。鳴竜殿も有名税よろしく一度焼失の憂き目を見ているが、堅山南風画伯なる大層な名前の人物により復元されている。
 この鳴竜殿の真下にて拍子木を打つと、龍が鳴くとのことで、多くの人が鳴竜殿を拝観しているが、実はこの鳴竜殿の写真撮影は禁止されているという。
 その理由が宗教上のものか或いは保存上の理由かは存ぜぬが、なんとも羨ましい限り。我輩などは頼んでも写真など撮ってもらえそうも無い。何度か、逐一自分の食べたものを撮影している酔狂な人に取られたことがあるが、当然我輩が被写体たりえたわけではない。
 彼我の差を思うにつけ、泣きたいのはむしろ我輩の方である。我輩の鱗が濡れたのは、何も湯気のためばかりではないのだ。

2008/06/02

梅雨

 窓越しの信号機が滲む。
 「ねぇ、ところでなんで梅雨に入ったの?」
 僕は彼女の笑顔を一瞥し、くわえたストローを思わず噛んだ。
 まただ。またこの手の質問だ。僕が梅雨に入った理由なんて一つしかない。そう、気象庁がそう言ったからだ。ヤツがただ一言「梅雨入りしました。」と言うだけで、僕は梅雨入りする。主体性なんてありはしない。ひどい時には「梅雨入りしていました。」なんて言われたこともある。
 なにも梅雨に限った話ではない。春に桜が咲いているのかも、秋に葉が色づいているのかも、僕は自分のことなのにわかりはしない。ただ気象庁が引いた線が僕に触れれば、僕は開花し紅葉する。今までもこれからも気象庁の敷いたレールの上をただ歩んでいくしかない。国土交通省ならまだしも気象庁の引いたレールなんてとんだお笑い草だ。
 そして、そのことは彼女も良く知っている。それでいて尚、僕に聞いてくるのだ。無邪気な笑顔で、僕が何と答えるか測って楽しんでいるのだ。穿った見方だと思うかもしれないが、いずれにせよ彼女の稚気が僕に牙を剥く。
 「さぁ……なんとなくかな。」
 これが僕の精一杯の回答だった。正直に話す誠実さも、理由をでっち上げる不誠実さも持てない僕の精一杯の回答だった。
 信号はいつまでも赤のまま、窓に染みて残っていた。

2008/04/20

神父と娼婦

 一人の神父が夜の街を彷徨い歩いていた。
 彼は神職に絶望していた。彼が幾千幾万その御名を唱えようと神はついぞ応えることなく、世の中は悪意と欺瞞に満ち溢れ、彼の無力感は深まるばかりであった。
 娼婦が彼の手を引き薄汚い部屋に彼を連れ込んだときも、彼は抗う力を持たなかった。彼は部屋の入り口に立ち、娼婦の服がその体から滑り落ちるのを別世界のことのように眺めていた。
 女が彼の頬に手を触れて初めて、彼は眼前の世界を己のこととして自覚した。途端、彼は自分の虚ろな心を埋めるかのように女を求め、その夜すがら体を貪り続けた。

 翌朝から彼は満ち足りた気持ちで再び神職に就いた。
 彼は、今まで神がその徴を与え給わなかったのは、己の信心が浅かったからに他ならないと知った。彼は娼婦がその名を呼ぶときの様に、神の名を唱え続けた。
 信徒は少し減った。


2008/04/19

DUOのBob

 『Duo 3.0』と言えば、受験生にはお馴染みの英単語帳である。その特徴は、単語を短い例文の中で記憶させる点にあり、単語を羅列しただけの単語帳とは一線を画している。僕自身も大学受験の際にはこれを使っていた。
 そして時は過ぎ社会に出た今、改めてこの本を手にとって見ると、これが単なる単語帳では無いということに気づかされた。
 DUOは、Bobという一人の男のbiography(伝記)とも言うべき一冊であったのだ。

 記念すべきBobの初登場は例文を9つ覚えた後にやってくる。
10.
Bob was so beside himself that he could scarcely tell fact from fiction.
ボブはひどく取り乱していて、現実と虚構の区別がほとんどできなかった。

 初登場から既に錯乱状態のボブ。これからの活躍を予感させる。
 錯乱状態のボブが正気に戻るまでには、100以上の例文を待たなければならない。
124.
"Bob, this vending machine is out of order."
"Oh no! I'm dying of thirst!"
「ボブ、この自動販売機、故障しているわ。」
「何だって! 喉が渇いて死にそうだよ!」

 せっかく正気を取り戻した途端に瀕死のボブ。結果、
125.
He fainted with hunger and fatigue, but came to after a while.
「彼は空腹と疲労で気を失ったが、しばらくして意識を取り戻した。」

 一例文もまともな状態でいられないボブ。
 だが、厳密に言えば「he=Bob」という確証があるわけではない。基本的にDUOでは不幸系の"I"及び"he"は全てボブだと考えると非常に面白のだが、以下はボブと明記されている文だけを抜粋することにしよう。

【嫌われるボブ】
146.
Bob cut in on our conversation, saying, "I'm against it!" But everybody ignored him.
ボブが「それには反対だ!」といって会話に割り込んできたけれども、誰も耳を貸さなかった。
186.
I can't figure out why on earth everybody feels so much contempt for Bob!
いったい何故みんながそれほどまでにボブを軽蔑するのか、僕にはわからない。
369.
"Bob, don't distub her. Mind your own business," he wispered.
ボブ、彼女の邪魔をしちゃだめだぞ。ちょっかいを出すなよ。」と彼は小声で言った。

【ボブの人となり】
195.
Since Bob is lazy heart, he frequently neglects his duties.
ボブは根が怠け者だから、与えられた仕事をしばしば怠る。
197.
Bob likes cartoons, but I don't think much of them. As a matter of fact, they're boring.
ボブはマンガ好きだけど、僕にはそれほどいいものとは思えない。実際、つまらないよ。
502.
Bob is very timid and blushes when chatting with girls.
ボブはとても臆病で女の子とおしゃべりすると赤面してしまう。
512.
Bob derives pleasure from observing insects.
ボブは昆虫の観察に楽しみを感じている。

【うっかりボブ】
479.
Bob mounted the portrait ina fancy frame, but it was upside down.
ボブは装飾された額にその肖像画をはめたけれど、上下逆さまだった。
505.
Although Bob was in disguise, I recognized him at a glance.
ボブは変装していたけれども、一目で彼だとわかった。
506.
"What are you chuckling about?"
"Bob, you have your sweatshirt on backwards!"
"Oops!"
「何をくすくす笑っているんだ?」
「ボブ、トレーナーが後ろ前よ。」
「あっ!」

 そんなボブだが、実は彼女がいる。
181.
I introduced Bob to my folks, and they took to him at once.
私の両親にボブを紹介したら、二人ともすぐに彼のことが好きになった。

 しかもご両親に紹介済み。ここにきてボブ大逆転……かと思いきや、やはりそこはボブ。ここから見事な転落を見せてくれるのだが、そのクライマックスは是非実際に本を手にとって確認して欲しい。
 最後にこの例文だけ紹介しておこう。
558.
Go easy on Bob. You know, he's been going through a rough period recently.
ボブには優しく接してあげてくれよ。ほら、彼は最近ずっと辛いこと続きなんだ。


 頑張れ、ボブ。

DUOとは - はてなダイアリー


2008/04/08

順番待ち

 なんて言ったって長男坊だったからね。生まれてきたのが一番先だったし、なんでも一番に買ってもらってたよ。そりゃあウチは金持ちじゃなかったからたいした物じゃなかったけれど、弟に比べりゃ数段ましさ。弟は服もおもちゃも何でもかんでも俺のお下がりで、ランドセルも自転車もいつも俺の後だったからね。
 なんでも俺が先に与えられる。そんな風に育ったから俺は順番待ちってのが全くできなくなっちまったんだな。三つ子の魂百までとはよく言ったものだよ。小学校の給食は誰よりも先によそってもらってたし、学生の頃電車に乗るにも割り込むのが当然と思っていた。そんな風にしてると敵も多いんだけどね、でも俺は体がデカかったから大抵の揉め事で勝っちゃうんだよね。そうすると俺が先であることに文句をつけるやつはどんどん減っていくんだよね。やっぱ環境が良くなかったな。
 結局学校は途中でよして、気付いたら立派なヤクザ屋さんになってたよ。そうなるといよいよ俺に文句つけるやつはいなかったね。タクシーの順番待ちなんてするわけねぇし、どんな混雑したメシ屋だって行ったらすぐに席を用意させたし、結局俺がそこに行けば待たされることなんて絶対なかったね。
 だからこの死に様は、まぁ俺らしいかも知れねぇな。高速道路で渋滞に気付かずにそのままズドンだからね。車の順番待ちが出来ずにお陀仏ときたもんだ。そのことについては俺は後悔してないよ。
 俺が何より後悔するのは、地獄に入るまでこんなに順番を待たなけりゃいけないのを知らなかったことだね。天国の方はガラガラだよ。最後の最後で順番待ちとは参ったよ。それを知ってりゃあ生きてるうちに少しは良いこともしたもんだよ。

2008/03/10

「学校に行きたくない」と泣きじゃくる娘

 娘が学校に行きたくないと駄々をこねるので大変困っています。以前の学校ではそのようなことはなかったのですが、去年の春に仕事の都合で今の学校に変わってから、このようなことが度々起こるようになりました。
 最初のうちは有無を言わさず、家から放り出すようにして通わせていました。しかし、そうしているうち、娘から日に日に生気が無くなっていくように見えて、最近では休むことを認めることもあります。
 私としては何としてでも学校に行かせるべきだと思っているのですが、最近では「学級崩壊」という言葉もあるくらいに、学校の様子もあまり芳しく無いようですし、「無理に学校に行かせるべきではない」と主張する本も目にします。
 親の私がこんなことではいけないのでしょうが、どうしたら良いのかわかりません。何かアドバイスを頂ければと思います。何とか娘が教師としての仕事を全うすることを切に願います。
��大阪府 58歳男)

2008/03/04

ラジオ

 僕のように車で営業している人間にとっては、営業車は自分の部屋みたいなもので、非常にリラックスできる空間です。僕の営業車はいかにも「営業車」という感じの、白い車で、窓はレバーを回して手動で開けますし、集中ドアロックもついていないから腕を伸ばして助手席のロックを外します。そして、車内にはラジオしかありません。
 営業車にCDプレイヤーがついていたら、僕はCDを持ち込んで「自分の部屋」に流していたでしょう。しかし、それがなかったために僕はラジオを流し続けていました。家ではテレビ・ゲームが専らだった僕にはラジオを聞く習慣が一切ありませんでした。それが急に一日中ラジオ漬けになったのです。新鮮な体験でした。音楽は自分の聞きたいものを聞くのが一番だとずっと思っていましたが、DJや他のリスナーが提供してくれる音楽に触れるのも面白いと思いました。また、リスナーのメッセージから彼らの生活模様を知ることもそれなりに楽しめました。
 そしてそんなラジオのある生活にすっかり慣れてきた12月のある日、月曜日でした。
 僕は地下駐車場の車に乗り込み、次の休みまでに越えなければならない五日間を思いながら、のろのろと車を発進させました。ラジオはずっとつけっ放しでしたが、走り出して最初のうちは全く音が頭に入ってきませんでした。高速の入り口をくぐって初めて、懐かしい曲が流れていることに気付きました。
 それは90年代に流行ったいわゆるJ-POPでした。僕は懐かしさと古臭さで思わず口元をほころばせました。このような曲が思いがけなく聞けるのもラジオの魅力です。そして次も同じような時代の曲でした。そしてその次も。
 最初は90年代の特集コーナーかとも思いましたが、それにしては数が多すぎるようでした。そして、DJもリスナーも「懐かしい」だとか「思い出」とかの表現を使うことはありませんでした。
 まるで、90年代のラジオがそのまま流れているようでした。
 その後もラジオは90年代前半か、それ以前の音楽を流し続け、チャートには90年代の曲がランクインしていました。マライア・キャリーの歌うクリスマスソングがうだるほど流れました。
 僕は思わず携帯電話を取り出し、今年が何年であったかを再確認しました。そしてこの不思議な現象を僕なりに論理的に捉えていようと努力もしました。そういう企画なのだろうか。或いはドッキリか。もしかしたら、10年以上前の電波が巡り巡って今僕の車に到達したのかもしれないなどと。
 しかしそれもすぐやめてしまいました。今思うと不思議ですが、そのときの僕はそれをそのまま受け入れることが出来ました。僕の車には昔のラジオが流れている。ただそれだけのことでした。
 僕はそれを誰にも言わず、ラジオのことは僕の秘密になりました。どうせ言ったところで信じてもらえるわけ無いと思っていましたし、ちょっとした特権意識も手伝いました。それに誰しも自分の部屋に秘密の一つや二つは隠し持っているものですから。
 ラジオはどうやら1994年の12月を生きているようでした。『innocent world』に『ロマンスの神様』、『ロード』はまだ第二章でした。
 僕の不思議なラジオ生活は、年が明けても続きました。ラジオは1995年になりました。何度か、戯れにリクエストの電話をしてみようかと思ったこともありましたが、それをした瞬間にこの不思議な世界が壊れてしまうような気がして、出来ませんでした。また何より、僕の興味の対象はもはや曲にはなく、その世界にいるリスナーの生活にありました。
 イチローの偉業を讃える女性のメッセージに、セガサターンとプレイステーションのどちらを買うべきかを迷う男性の声。僕は彼女にイチローがメジャーリーグに行くことを教えたかったし、彼にセガサターンを買うよう薦めたい気持ちで一杯でした。
 僕は自分だけが未来を知るものとして、彼らの生活の方向が正しいとか間違っているとか自分の中で判決を下して、まるで神様になったような気分でした。
 ある日のこと、とあるリスナーが週末に結婚式を迎えるとのことで、ウエディングソングをリクエストしていました。僕は失礼ながら、彼女が今でも結婚しているかどうかなんてことを考えていました。しかし、次にはもっと違う想像が頭によぎりました。
 その日は1月16日でした。ラジオも日付は一緒でしたから、ラジオの世界は1995年の1月16日です。そして翌日は1995年の1月17日。
 急に動悸が激しく感じられました。僕は当時東京にいたため、災害を体験したわけではありませんが、ねじり倒された道路のイメージは鮮明にあります。ラジオの世界でまさにそれが起ころうとしているのでした。
 僕は何とかして彼女を助けたいと思いました。でもどうやって伝えればよかったのでしょう。今僕が現に生きているこの世界ですら、僕が今明日大地震が起きるといって誰が信じてくれるでしょうか。況や、この箱の中から流れてくる音だけの世界に僕がどうやって迫り来る危機を知らせることが出来るでしょうか。未来を知る神であったはずの僕は、あまりにも無力でした。
 僕は車を路肩に止めると、携帯電話を取り出しました。リクエストの電話番号にかけるためです。この番号だけが、僕と彼らを繫ぐ唯一のものでした。
 発信ボタンを押すと、
 「お客様がおかけになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめになって……」
 僕は電話を切ると、そのままラジオの電源も切りました。
 それ以来、ラジオは聞いていません。