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2010/10/26

空の封筒

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 西日暮里の駅で前の座席が空いたので座ろうとすると、その足元にみずほ銀行の封筒が落ちていた。靴跡がついたその白い封筒が目に入ったとき、少し躊躇したけれど、そのまま席に座った。
 今、足元に銀行の封筒が落ちている。中身はきっと空だろう。さっき座るときに少しだけ見たけれど、厚みは無かった。いや、ちょっと目に入っただけで、決して厚さを確かめたわけではない。全く気にしなかったけれど、座ろうとして下を見たら視界にあの封筒が入ってきて、たまたま厚みを把握することになっただけのことだ。
 座ってから少し足を動かすと、革靴の底に紙の質感を感じた。どうやら僕がたまたま足を置いた位置の下に、あの中身が空の封筒があるらしい。ちょうど僕の足があの封筒をおさえるような形になっているみたいだ。だからといって改めて足を動かす必要はない。下に封筒があろうがなかろうが、その位置が僕の足にとってベストなポジションであるのだから。
 さて、期せずして僕の足の下にあるこの白いみずほ銀行の封筒は、十中八九空だ。足の感覚からもそう感じられる。別に確かめようとして足を置いたわけではないけれど。

 しかし、この空の封筒に万が一何かが入っていたとすると、このまま放っておくのはよくないだろう。万が一何かが入っていたとして、それが何かはわからないけれど、銀行の封筒であるからにはそれが日本銀行券つまりお金、さらに厚みから考えて紙幣であり、さらには封筒に入っているくらいだから一万円札である可能性はある。僕自身は金額の多寡には興味はないけれど。
 もしその紙幣を誰か心無い人に拾われて使われてしまったら、落とした人はたいそう困ってしまうだろう。そんなことになるくらいなら、僕のような金銭に一切興味のない人間が拾って駅か交番に届けたほうが良い。そう考えると、僕は不本意ながら、空でほぼ間違いのない銀行の白い封筒を拾わないといけない。あぁ、なんて面倒なことに巻き込まれてしまったのだろうか。拾いたくもない銀行の封筒を拾わなくてはいけないなんて。今日はとてもついていない。

 帰宅時刻の各駅停車はドアが開くたびに多くの人をはき出して、代わりにわずかな人を乗せて走る。僕は車内が閑散とするのを待った。もちろん何一つ後ろめたい気持ちはない。交番に届けるための第一歩として封筒を拾うだけなのだから。
 ただ、さっきまで僕の目の前に立っていたサラリーマンが、僕の対面の席に座ってからなかなか降りない。こちらを見ているような気がする。この空の封筒は僕が交番に届けるのだから、誰にも渡さないし触らせない。
 やがてある駅で多くの乗客とともにそのサラリーマンも降りた。そして代わりの乗客が乗り込んでくるまでのその刹那、もっとも車内に人が少なくなるその瞬間に、僕は座ったまま素早く前かがみになり、白い封筒を拾い上げた。
 砂で若干ざらついた封筒を手にした瞬間に、僕は確信した。
 「この封筒は、空だ。」
 僕はその薄汚い封筒を二つに折って、膝の上にある鞄に置いた。なんで僕は電車の床に落ちていたごみを膝の上に抱えているのだろう。
 僕はごみを手にしたまま幾つかの駅を通過し、最寄り駅で電車を降りた。風が冷たくて、秋はもう帰り支度をして冬の到来を待っているみたいだった。僕はホームを歩きながら、体の前で封筒を真っ直ぐに伸ばした。別に興味はなかったけれど、はじめて封筒の中身を目で確かめた。
 封筒は、空だった。
 階段を上がり、駅のごみ箱にその封筒を捨てた。封筒についていた砂のざらつきが右手の指先にしばらく残っていた。