ある日、戸棚にしまわれていたグラスの片方が、もう片方にひびが入っていることに気付きます。
「ねぇ君、どうやら君の体にはひびが入ってしまっているようだね。」
『そんな訳ないだろ。僕はどこにもぶつかってはいないよ。』
「でも現にひびが入っているからね。自分の体は見えないだろうから、僕に反射させて見てごらんよ。」
『どれどれ。ううん。確かにひびが入っているね。でもそのひびは、僕にじゃなくて君に入っているものだね。君自身のひびが僕の体に反射して見えたって寸法だろう。』
「そんなはずはないさ。僕はご覧の通りぴっかぴかだからね。ひびが入っているのは君のほうさ」
『まぁどちらでもいいさ。グラス同士で水掛け論をしても仕方ないからね。今度洗剤とタオルが一緒のときにでも話し合おうよ。』
「そんな悠長なことを言ってていいのかな。言っちゃ何だけど、僕らはそんじょそこらのコップとは違う、特別なグラスだ。コップならほっとかれるような小さなひびや傷も、僕らにとってはおおごとだよ。捨てられちまうかもしれない。長年連れ添った君がいなくなってしまうかも知れないと考えただけで、僕はとても寂しい気持ちになるよ。でも仕方ない。それが選ばれた立場にいるものの宿命だからね。」
『そうだね。捨てられるのがどちらであれ、少なくとも離れ離れになることは間違いないだろうね。』
「繰り返すけれど、僕にはひびなんか入っていない。一縷の傷も一点の曇りもないよ。捨てられるのは、君だ。僕はそのことをとても残念に思うよ。」
『ひびや傷はともかく、君の目は曇り気味だね。いずれわかることだよ。』
それからしばらくして、主人が久し振りに戸棚からグラスを取り出すと、片方のグラスにひびが入っているのを見つけました。主人は口惜しそうにひびの入ったグラスを見つめ、少し首をかしげた後、ペアのグラスを両方とも捨ててしまいました。