彼はそう言って彼女を妻に迎えた。
実直な彼は誓いを守るべく、一心不乱に働く一方で、決して家の中に仕事は持ち込まずに、妻との時間をできる限り多く設けるようにした。彼は少し古い男で、自分の稼ぎで生活を支えることが家族の幸せであると考えていたのだが、仕事にかまけて妻との時間を疎かにするほど視野が狭くもなかった。
結婚生活は幸せだった。子供には恵まれなかったが、そのことを特に不幸だとも感じなかった。むしろそのことで妻と二人で過ごす時間が多いことが嬉しかったし、それに、子育てに奔走する同世代の母に比べて、――結婚して多少ふっくらはしたが、彼女は美しかった。二人はいつも手をつないで歩き、たまに真っ白なテーブルクロスのレストランで食事をした。
そんな中で、彼女が働きに出たいと言い出したのは、彼にとって意外だった。彼は努めて軽い調子で、今の自分の稼ぎに不満があるのかと妻に聞いたが、彼女は笑ってそれを否定し、ただ外の世界にも触れてみたいだけだと言った。この申し出は、多少なりとも彼の自尊心を傷つけたが、単調な家事仕事だけの生活(と彼は解釈した)を抜け出して外に出ることを彼女が望むなら、それを尊重したいと考えてこれに賛成した。ただ、一つだけ条件をつけた。彼女の稼ぎは彼女自身で使うこととし、家計はこれまで通り自分の稼ぎで支えるという条件を。彼はやはり古い男なのだ。
彼女が働き出してからも、変わらず日々は幸せだった。出会った頃のような空から全身に降り注ぐような幸せは無かったけれども、二人で過ごした年月のうちに降り積った幸せは、手を伸ばせばいつでもすくい取ることができた。
あるとき彼が仕事で外出中、自分が妻の勤め先の近くにいることに気がついた。時間もあったし、それまで彼は妻の働く姿を見たことがなかったので、一目見てやろうと彼は妻の勤め先へと向かった。
平日昼間の宝飾店に背広姿のサラリーマンが一人で行くのは憚られるので、少し離れた距離から中の様子をうかがうと、ガラス張りの店内は良く見通せた。だが、そこに妻の姿はなかった。休憩中かとも思い、しばらく待ってみたがそれでも彼女は現れない。
そのまま帰って、晩酌でもしながら妻に言えばいいのだろう、今日職場に行ったけど、いなかったね、と。だが、何かが引っかかった。彼は店内に入ると、以前彼女に見立ててもらったからと言って、妻の名前を出し、勤務しているかを聞いた。彼女は現在、週に二日しか勤務していないという。彼は少し顔をしかめてお礼を言うと、店を出た。
彼の知る限り、妻は概ね週三日~四日は勤務しているはずであった。ただ、妻は仕事のある日もない日も変わらずに、夕食を作って彼を迎えてくれていたため、彼は彼女の言葉以外からそのことをうかがい知ることはできなかった。
その日、彼は少し早く帰宅したが、妻は変わらずに夕飯の支度を整えて彼を迎えた。夕飯を食べながら彼はありったけの演技でそれとなく彼女に聞いた、仕事はどうだったかと。彼女は答えた。
「いつも通り。最初は新しいことばかりだったけど、やっぱり馴れてしまうと退屈になるね。」
そう言って彼女は、自分が接客中の欠伸を誤魔化した話や同僚の失敗談などを楽しそうに話すのであった。
彼はそれから彼女を問い詰めるようなことはしなかったし、もう彼女の職場に行こうともしなかった。二人の関係はなんら変わらず、幸せだった。だが彼の脳裏には常に一点の染みが残っているような感覚があった。仕事をしているときも、彼女と話しているときにも、油断しているとその染みがいつの間にか目の中に入り込んできて、眼前の世界を汚そうとするのであった。
彼女はあの日、どこへ行っていたのか/なぜ嘘をついたのか/あの日だけのことなのか/彼女の稼ぎはどこへ行っているのか/いや、誰に行っているのだろうか。
ある日ふと彼が妻を見ると、彼女が少し細くなっていることに気付いた。まるで彼と結婚する前に戻ったかのような、少し儚げな彼女の美しさには彼は魅力を感じると同時に、そんなことにも気付かずにいた自分を責めた。彼女の罪は自分に原因があるように彼には思えたのだった。
彼は妻に疑念をぶつけることができなかった。その理由は、一つは彼女を疑うことそれ自体が彼には恥ずべきことのように思われたのであった。そしてもう一つは、彼はただ怖かったからであった。もし彼女が彼の思うような罪を犯していたとして、それが露見したとき、崩れるのは彼のほうであると、彼自身がわかっていた。
彼は不安を打ち消すように、仕事により一層打ち込んだ。あたかも自分の義務を果たせば、誰かが見ていてくれて、それに報いてくれるとでも言わんばかりであった。そのくせ彼自身そんなことは微塵も信じてなどいなかった。
帰宅の時間は少しずつ遅くなり、妻と過ごす時間も削られていた。だから、妻の母が深夜近くに彼に連絡をよこしたときも、彼はまだ会社にいた。彼が病院に着いた頃には日付が変わっていた。
真っ白なベッドに横たわった妻は、穏やかな顔をして何日間か眠りに着いたあと、そのまま息を引き取った。彼女は最期まで約束を守り、彼の思い出には笑顔の彼女しか残っていなかった。そして彼はそのことが何よりも悲しかった。