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2008/06/24

カミキリムシ ※虫が苦手な方は閲覧ご注意下さい

 休み明けの朝は通勤の足もひときわ重い。
 プラットホームの人ごみはさらってもさらっても次々に溢れ出てくる。
 列の先頭で次の電車を待っていると、左側に人の並ぶ気配がした。そちらに目をやる前に聞こえてくる鼻歌、と言うか小声で歌っている。どうやらあまりお近づきになりたくない感じの人が来たようだ。月曜の朝を一層陰鬱にしてくれる邂逅に、僕はイヤホンのボリュームを上げた。
 黄色いポロシャツを着た男は、電車が来るとドアのまん前、ど真ん中に立ち、真っ先に乗り込んだ。ポロシャツの男は乗り込んだままの向きで立ち、僕はその横で逆に向きなおして立っていた。黒いリュックサックは不自然に高い位置で背負われたまま、無駄なスペースを占有していた。
 僕には注意する勇気もなかったが、せめてもの抗議の気持ちでポロシャツを一瞥した。すると、ポロシャツの右肩に黒い物体があるのが目に付いた。黄色いポロシャツの右肩には、黒と白のまだら色をした一匹のカミキリムシがいた。
 僕は我が目を疑った。最初はポロシャツのワンポイントかと思った。しかし、カミキリムシの上にはマレット(ラケット)を持った人は乗っていなかったし、どう見ても立体だった。それにギシギシ動いていた。
 僕の中に様々な思いが去来した。何故ここにカミキリムシがいるのだろうか。ポロシャツが飼っているのだろうか。そともカミキリムシがポロシャツの本体なのだろうか。僕にしか見えていないのだろうか。電車賃は払ったのだろうか。メスだったら女性専用車両に移ったほうが良いのではないだろうか。ってかこっち来たらどうしよう。
 なぜかカミキリムシを直視するのが憚られ、僕は顔を正面に向けたまま、横目でカミキリムシの動静を凝視していた。今日ほど駅間が長く感じられた日があっただろうか。
 それでもやがて大阪駅が近づいてきた。降車のため一人また一人と降り口側へと体を向ける。ポロシャツもリュックサックを振り回しながら、体を反転させた。これでカミキリムシのいる右肩は僕とは反対側になったため、僕は安堵の息をもらした。同時に、カミキリサイドにいる人の反応が気になったので、引き続き横目で反応を窺っていた。
 僕の予想と異なり、一番最初にリアクションをとったのは、ポロシャツ自身であった。ポロシャツは振り返ってすぐに自分の右肩を見ると、一瞬体を震わせて、すぐにご自慢のワンポイントを左手で払い落とした。
 ポロシャツの裏切りにあったカミキリムシは、中空を彷徨いながら何を思ったであろうか。厳しかった父、優しかった母、むしろ卵。或いは、ただ生きることのみを願ったのであろう。ただ生きることを切望したカミキリムシは、必死に両足を伸ばし、命にすがりついたのであった。
 結果、ポロシャツの右肩からこぼれ落ちたカミキリムシは、すぐ前にいた女性の背中に張り付いた。凍りつく僕とポロシャツ。近くにいた数名も気付いていたが、声も出ない。九死に一生を得たカミキリムシは、女性の白い服の上を一歩一歩這い上がっていく。誰も身動きが取れない。恐らく今カミキリムシのことを彼女に伝えたらパニックになる。伝えるなら電車から降りてすぐだ。
 電車はゆっくりとホームに進入し、カミキリムシはゆっくりと女性の背中を進み首筋に近づいていく。首に触られたらおしまいだったが、男たちは魅入られたようにただその歩みを見ていた。誰も手を出せずにいた。
 カミキリムシが女性の肩にかかる髪に触れた。そしてなおも進み続けた。カミキリムシの黒い体は髪に隠れて半ば見えなくなっていた。女性は何かに気付いたのだろう。首を振って髪をなびかせた。一瞬、衣服のへりにいるカミキリムシの姿が見え、またすぐに隠れた。
 そのとき、電車の扉が開き、乗客はホームへと押し流された。女性はもう一度首を振って髪をなびかせたが、カミキリムシはまだそこにいた。人波にもまれて彼女と離れてしまった僕は、彼女に声をかけられない状況を喜んだ。黄色いポロシャツはさっさと階段を下っていた。僕も彼女より先に階段を下った。
 背後で誰かが彼女に声をかけたのが聞こえた。