このブログを検索

2008/01/22

バタア

 ホットケーキを焼いてくれるというのでおとなしく本を読んでいると、キッチンの彼女が素っ頓狂な声でバターがないことを僕に告げる。それはそうだろう。男一人暮らしの冷蔵庫にバターを求めるのは、平日昼の渋谷にタモリを求めるが如しである。
 僕がサラダ油で焼くことを提案したにもかかわらず、彼女は執拗にバターで焼くことにこだわっている。バターで焼くことこそがホットケーキのアイデンティティを一手に担っているらしい。ホットケーキミックスの立場はどうなるのだろうか。
 だがそれほどまでにバターの必要性を主張する彼女だが、それを自ら仕入れてくる様子は皆無である。となると、今、ホットケーキの自我が崩壊する危機を救えるのは僕しかいない。無駄と知りつつ、読んでいる本が面白いところを迎えたところである旨を伝えてみたが、本を読みながら行けばよいとの返答を戴くだけに終わった。二宮金次郎とでも付き合っているつもりだろうか。
 自分が食べさせてもらう立場であることを思い出し、僕はようやく重い腰を上げた。彼女の声に送られてマンションのドアを後ろ手に閉めると、僕は廊下を早足で歩き始めた。実は彼女に物を頼まれるのは嫌いではない。むしろ彼女が遠慮なく我儘を言うのが嬉しかったし、またそれを叶えてやれるのもまた楽しかった。彼女が驚くくらいに早くバターを調達してやろう。そう考えてはやる気持ちが自然僕を早足にした。
 彼女の喜ぶ声を追うて僕は走り出した。階段を駆け下り、玄関を飛び出し、最寄のコンビニを通り過ぎ、スーパーもやり過ごし、無我夢中で駈けて行く中に、幾つもの信号を越え、幾つもの駅を越え、舗装された道路も果て、何時しか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を攫んで走っていた。何か身体中に力が充ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。手先や肱のあたりに毛を生じている気もしてきた。少し立ち止まって、谷川に臨んで姿を映して見ると、未だ虎となっていなかった。
 自分は初め眼を信じなかった。次に、これは夢に違いないと考えた。夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、自分は茫然とした。
 自分は彼女のために何としてもバターにならねばならぬ。その為には樹木を何度周回する労も厭わないつもりである。だが、自分はバターどころか、その前段階である虎にすらなれぬというのか。僕はいてもたってもいられず、また走り出した。しかし、何処まで走ろうが何時まで走ろうが、僕は虎になることなく人のままであった。
 僕はこのときほど自分が自分であることを呪ったことはなかった。彼女に対してあまりにも無力な自分の存在と、その無力の理由がまさに「自分が自分であること」にあるのが耐え難い苦痛であった。
 気が付くと僕は部屋の前に帰ってきていた。ドアを開けると彼女が出迎えてくれたが、何も持っていない僕を見て少し訝しげであった。僕は彼女に財布を忘れたと言った。彼女は笑って僕に何枚かの小銭を手渡してくれた。
 僕はすぐ帰ってくると言ってドアを閉めたが、再びその姿を見なかった。

【参照】
中島敦『山月記』(青空文庫)